イナート・ガス

 先日、造船技術者と会って、技術的な話をたくさん聞いた。その中で筆者が一番興味のあった話は、イナート・ガスである。英語であって、綴りは”inert gas”である。

 化学の世界で言うと、それは不活性ガスで、いわゆる希ガスを指すことが大半だ。しかし工業的には「火が付かないようにする気体」であって、その性質を持っていれば、何でもよいわけだ。
 油槽船(タンカー)の内部を洗浄(本当は洗滌・せんでき)するときに、ウォーター・ジェットを使うのだが、その噴出によって静電気が起こり、爆発が起こる。それを防ぐためには、内部をイナート・ガスで満たす。そのガスをどうやって準備するかである。
 普通は窒素を使いたいところだが、そんな大量の窒素を作るのは大変だ。要するに爆発限界以下、あるいは以上であればよいわけで、酸素分圧を下げるか上げるかである。上げてもろくなことはないので、酸素の少ない環境を作りだせば良い。一番安いのはディーゼルエンジンの排気だそうだ。作業に使う機器を動かす発電機の排ガスを多量の海水で洗う。
 完全燃焼しているなら酸素はゼロの筈だが、多少は酸素過剰にしておかないとうまく動かない。酸素は少しぐらいなら残っていても、爆発限界以下なら構わない。
 二酸化炭素、二酸化硫黄等は殆どなくなり、窒素が大半だ。それを油槽に注入する。

 石炭運搬船も、空間をイナート・ガスで満たさねばならない。穀物輸送船も荷役時の粉塵爆発を避けるために、イナート・ガスを大量に必要とする。このような目的のガスを”flue gas”という。日本語で言うと煙道ガスだ。要するに燃焼後の排ガスである。

 酸素を抜くという作業は、船舶以外のいろいろな場面でも必要になる。最も目立つのは、ポテト・チップスの袋だ。油がすぐに酸化されて臭くなってしまうので、昔は袋詰めの商品はなかった。作ってすぐに消費せねばならなかったのだ。ところがある人が、酸素分圧を下げると、酸化が極端に遅くなることを見つけた。100%の窒素を詰めるとなると、技術的にも困難だし、高価である。それと今回の話は共通点がある。

 工学というものは、「うまく行かせる技術」である。「理論的には、こうすればできる」のであろうが、あまりにも経済的でないときには、「これでもできる」という例を示せばよい。
 要するに、「唯一絶対のやり方を探すことではない」と言っているのだ。これこそが、プラグマティズムである
 理論的にはこうならなければならないということが分かった上で、問題点はどこで、どの部分なら妥協ができ、どの部分は妥協できないかが分かることが必要なのだ。
「これでもうまく行く」、「あれは外せない」という思考をすべきなのだ。
 優れた技術者は、その選択肢をたくさん用意でき、対処する方法を絞れる。

 勉強の仕方を変えなければいけない人はたくさんいる筈だ。もちろん教師もだ
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ステンレスのボルト

 町内会長とその上の組織の連合会長を3年ほどやっている。道路工事、電気工事、水道工事などがあると、事前に連絡があって了承を取られる。筆者が地主でもなんでもないのだが、形式的にそういうことをするのだろう。
 先日は県の水道局から、連絡があって、高速道路をまたぐ水管橋を更新するという。面白そうなので、初日の測量に立ち会うことにした。

 茂っている雑草を刈ると水管橋が現れた。隣のガス管にはステンレスのバンドが巻いてあって、おそらくその下はがたがたに錆びているだろうと思った。

 県の技師にステンレスと鉄をくっつけて放置するとどうなるか聞いてみた。
「鉄が錆びるんでしょうか。」と自信のない答え。
「御名答。大変良くないね。このガス管は低圧だそうだから、まあ問題ないだろう。20年で更新するのなら、持つかもしれないが、正しいやり方ではない。」
「お詳しそうですね。もう少し教えてください。」と言う。なかなか優秀そうな技師だ。

「ステンレスのワイヤで何かを縛ったりするとどうなるだろうね。」
「鉄と触れてなければ大丈夫でしょう。」
「いや、ダメなんだ。きつく縛っておいたのに緩んでいるという経験はないか?」
「アッ、あります。おかしいなと思っていました。」
「ステンレスのボルトで締めるということはしてないか?」

「アッ、あれもそうだ!実は先日太い送水管の水漏れがありました。継手部分から漏れていたのです。ちゃんと締めたのを確認した記録もあるのにです。」
「それはボルトが伸びたんだ。ステンレスのボルトで締めるということが、根本的に間違っている。学校で習わなかったのかい?」
「習いませんでした。言われてみると思い当たることがいっぱいあります。」
「この言葉を覚えて置くと良い。オーステナイト。発音してご覧。ステンレスはオーステナイト状態だから、塑性変形が簡単だ。」
「オーステナイト、オーステナイト・・・。難しい言葉ですね。」

「ステンレスはいくらでも伸びるんだよ。例えば建物の梁に使うとどうなると思う?」
「垂れてくるのですか。」
「御名答!さすがにそれをやる人はいないが、ボルトに使って締める人はいっぱいいる。そうして、あちこちで緩んで事故が起きる。」
「どうしてそれを教えないのでしょう。」
「絶対に壊れてはいけない分野、例えば橋とか船の学校では教えているだろうね。建築分野では知らない人が多いよ。雨漏りの原因なんだけどね。日本は住宅の寿命が短いこともあって、そのくらいの期間ならもつのかもしれない。だから気が付かないんだ。」
「私は、水道の分野を何年もやってきましたが、こんなことを教えてもらったのは初めてです。日本の理科教育はおかしいですね。」

「確かにおかしいね。アメリカの水道屋はステンレスと鉄管をつないではいけないことは知っているよ。」
「アッ、それは僕たちも知っていますが、ステンレスが伸びるということは知りませんでした。今日は良いことを教えて戴いて、ありがとうございます。」
なかなか素直な技師だった。

別れ際に、「このことを部署を越えて啓蒙活動するのだよ。そうすれば、きっと出世できるよ。」というと、彼は照れ笑いをした。

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