魔法使い

30年以上前のことである。当時、筆者は10階建てのマンションの9階に住んでいた。夏の暑い日、南側の灼けたタイルにくっついたチューインガムを取るのに、掃除のおばさんが苦労していた。熱くなければ、氷で冷やして剥がせるのだが、陽射しで灼けて、60℃にはなっているだろう。とても少しばかりの氷では無理だ。

「ちょっと待っていてください。」と言って、自宅に帰り、たまたまあったサンプルの水酸化カリウムを持って来た。周りに油粘土で低い堤防を作り、中に水酸化カリウムを数粒入れた。少量の水を入れると直ちに60℃になり、ポリ酢酸ビニルの鹸化が始まった。割り箸でかき混ぜると、均一な溶液になった。この間、2分ほどである。その後は、バケツで水を流しておしまいである。ポリビニルアルコールは、生分解性だし、過剰の塩基は二酸化炭素と反応してなくなる。

掃除のおばさんはとても驚き、「あんたは魔法使いかね?」と聞く。
「ええ、まあそんな所です。長らく修業中でしたが、先日免許皆伝となりました。」と答えておいた。その後、そのおばさんは、筆者のことをあちこちで話していたらしい。

しばらく経って、ある種の事件が続発した。排水管が詰まり、2階か3階でトイレが噴水になって、大問題になったのだ。排水溝に油を流したり、チューインガムを捨てたことが原因だろう。入居者が集まって、どうするべきかを決める会合が持たれた。業者を呼ぶと一戸あたりの負担金は大きく、みな消極的であった。ある人が、「ここは魔法使いさんに聞いて見よう。」と言うと、全員がこちらを見た。
筆者は、水酸化カリウムの熱水溶液による鹸化を提案した。理屈を話すと皆乗り気で、夜中の11時にやることにした。まず、熱湯を流して、予熱し、一分毎に10階から順に熱水溶液を流すことにし、全館放送を使って、タイミングを合わせた。強塩基の水溶液は危険なので、子供達の寝た後で行ったのだ。アルミの鍋は消滅するので、必ずステンレス製鍋で溶かすようとに、念を押した。この辺りの事前の注意は、実際にやって見せて周知した。

実行の日が来た。案内放送をして終了した。明くる日、下水の蓋を開けて見て驚いた。なんと2トントラック一杯分のゴミが出て来たのだ。これは効果があった。それ以降、そのマンション内では油を流す者はいなくなったようだ。筆者の魔法使いとしての評判は日に日に上がり、皆が感謝してくれた。

自治会長はそれをよそに行って話し、評判はますます高まって、収拾がつかなくなってきた。
「教育委員になったらどうか。」とか、「市会議員に出たら応援するぞ。」と言う人がたくさん訪ねてきた。丁寧にお断りしてお引き取り願った。
その後引っ越したので縁がなくなったが、そのまま居たらどうなったかと思うと面白い。
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洗浄瓶?

 15年以上前の話である。ある生徒さんからの相談を受けた。その生徒さんは、筆者の授業の内容をいつもおばあちゃんに話しているのだそうだ。
「祖母の大事なブラウスに、近くの水道工事の後の赤水で、赤い斑点が付いてしまいました。どうすれば取れるでしょう。」というものであった。
「それはシュウ酸を使うと一瞬で取れるよ。」と答え、自宅から少量の試薬を持って来て渡した。
 その次の週、彼女は封筒を持ってきた。
「これ、おばあちゃんからです。すごくうまくいったので、『魔法みたいだ。』って感心していましたよ。これは祖母からのお礼です!」と言ってビール券を戴いた。生徒さんの家族から物を戴くなんて、ふつうはあり得ないことで面くらったが、拒絶するのも気の毒で受け取ることにした。

 これはFe(Ⅲ)イオンが、シュウ酸イオンでキレート化することによる。実に迅速な反応である。筆者はこの反応を幼稚園のころから知っている。
 近くに電車の車庫があり、そこでシュウ酸(当時は蓚酸と書いた)水溶液で電車の窓を拭いているのを見ていたからだ。電車にはブレーキがあり、鋳鉄製の制輪子(ブレーキ・シュウ)を車輪に押し付けていた。制輪子は擦り減って鉄粉になり、舞い上がってガラスに付く。そして、そこで錆びてガラスを汚していたのだ。車庫の中ではシュウ酸液を作って、モップで拭いていた。モップで拭くとすぐきれいになった。そのあとは水で流しておしまいである。

 その作業をする台があって、難しい漢字で「洗滌台」とあった。その漢字にはカタカナで「センデキダイ」と振り仮名を付けてあったのだ。
 子供の頃に刷り込まれた読み方を忘れることはなかった。中学の時、洗浄という文字を習ったが、それが当て字であることは、大学生時代に知った。 

 筆者の学生時代は、明治生まれの先生がまだ現役であった最後の年であった。実験室で「センジョウビン」と言う言葉を発した学生がいた。老教授は、「この頃の若い者は漢字の読み方を知らん。これはセンジョウビンではない。」と仰った。その学生は「センジョウビンではないのですか。他の読み方など思い付きません。」と言った。

 そこで筆者は思い切って、「センデキビンではありませんか。」と言うと、その先生は、「おっ、読める奴がいるではないか。」と随分褒めてくれた。その後、その先生には可愛がって貰えた。

 この洗滌と言う言葉を誰かが読み間違えて、それを誰かが洗浄という字をあてはめて、現在に至ったようだ。それにしても難しい読み方だ。洗浄という言葉はもともとあったようだが、それは仏教用語で(罪を)洗い清めることらしい。

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